MOIW2023感想day2
MOIW2023 day2の感想を箇条書きで書きます。
day1はこちら。
bye-bye-jupiter.hatenablog.com
・シャイノグラフィ
やらないだろうな〜と思っていたけどやってくれた曲その⑤。
シャニマスの全体曲で一番好きな曲なので本当に嬉しい。
・O-Ku-Ri-Mo-No-Sunday!
予測可能回避不可能その④。
2番Aメロラップパートであさぽんas双海亜美&真美が爪痕を残していた。
・あんきら!?狂騒曲
追加出演者が入ってくるタイミングは予想通り。しかし何より……
ステージ上にただのオタクがいただろ!!!!
だまゆおめでとう……良かったね……ラストのポーズ取るとこ見たことない笑顔でハグしてたね……。
・ラブ・ボナペティート
teatime cliché 、アルストロメリアとコラボしてほしさある。ていうかカフェパレ全体とアルストロメリア軽率に絡んでほしい
— あんぱ@ (@ampersand_imas) 2023年2月3日
か……
マジで嬉しい。咲ちゃんが笑顔で歌って踊ってくれていることが、私の何よりの喜びです……。
・太陽キッス
放クラ曲はいくらやってもよい。古事記にもそう書いてある。
シンデレラにはタオル曲が無いのでそういう意味でも貴重だった。
・きゅんっ!ヴァンパイアガール
同人誌やんけ!!!!!!
こんなん、同人誌じゃん……えっちすぎる……。
・Tresure☆
イントロ流れた瞬間、曲を察知して大丈夫か……?許された……?って思ったけどTresure☆は最初からシンデレラ6thとか10thでもやってる感動曲だった。
ライブ前にFLAGSにRaise The FLAGを期待する声を見掛けたけど、まさかこっちが来るとは。
でも確かにTresure☆も旗を掲げて大海に漕ぎ出してるな……一本取られた。
誰が助けに来るんだろうと思っていたが閃光☆HANABI団とは。セーラー繋がり。こちらも全く意識外だったが言われてみればという感じだ。
・Study Equal Magic!
ねぼすけ3人組出てきた時めちゃめちゃ笑った。
合同ライブの機会にS.E.Mがいないの本当に残念に思ってて、アニサマなどでアイマスどころかアニソン全体でも認知度の高い歌SEMとタケノコダンスやってほしいなと思ってたから最高だった。
あとモニターでまいたるパートの時にsleepyとかなまけ英単語流れてたの芸コマだった。
・学祭革命夜明け前
やらないだろうな〜その⑥。
ありがとう……それしか言う言葉が見つからない……。
昨日は昨日で最高だったけどもう放クラ出ちゃったからもう放クラ曲聞けないな……と思っていたらまさに求めていた曲が来てくれて本当に嬉しい。
学祭革命夜明け前は最高なんだ……本番前が本番のような……瞬間が永遠に輝け……。
ほんとやってほしい曲全部やってくれるじゃん……。
・ALIVE
ありがとう……それしか(以下略
至高の楽曲を至高のボーカル陣で聞かせる素晴らしいパフォーマンスでした。
この面子に美琴さんいるの少し意外に感じた。
キャラ感と声質からだろうけど、この最強ボーカル面子に並んで一歩もひけを取らない山根綺as美琴さんに驚いた。
ややさん歌って踊れて可愛くて演技上手くて最強か……?
あとラスサビで戸松遥さん来るかな、とちょっとだけ期待したけど、それはMOIW2025のお楽しみにしておきましょうね……。
・レッドソール
4luxuryの追加は期待通りだけどまさか玲音が来るとは。てかコラボにも普通に出演するとは!ということはやるんだな、今、ここで!ってベルトルト顔になったpart2。
・純白トロイメライ
やらないだろうな〜その⑦。
マジでアンティーカで一番好きな曲だけどちょっと変化球な曲だしやらないだろうなと思っていたから嬉しすぎた。
まあ直球な曲をやると直前のドンロプと曲調が被りすぎてしまうからだろうけど。
・Fly and Fly
ダンスがエグすぎる腰の位置低すぎる。今まで個人的アイドルマスター腰沈みランキング1位はシンデレラ7th大阪のLunatic Showだったけど、それを上回ってしまった。
歌詞もおそらくアイマス全楽曲で最も英語詞が多いんじゃないかというほどだし、SHHisだけユニットそのものもそうだけど戦ってる世界が違いすぎる。
day1終了時点で、独特なSHHisの楽曲とコラボできるのは誰だろうと思ってたけどまさかZWEIGLANZが来るとは。まさかって感じだがグッときたぜ!
しかし流石に茅原実里&高橋李依といえども間奏時のSHHisの激しいダンスは再現できずふわっとした動きだったの面白かった。
・オーバーマスター
Demolishが聞けなかったのは残念だけど、アイドルマスター強い女選手権殿堂入り曲をThreat Signの3人で歌ってくれたのは嬉しかった。実際堂々たる歌いっぷりだったしこれまでの961プロブロックの締めくくりとしての意味も乗っかって大いに盛り上がった。
・Raise the FLAG
F-LAGSの時に来なかったと思ったらここで!
まるで最初からSideMの曲であったかのようなフィット感。数年振りにraise up!って叫べて良かった……。
・Yes! Party Time!!
ウオオオオオオ(UOポキポキ)
Yes! Party Timeで叫べる日が帰ってきたんだなって不意に涙が込み上げてきた。
・Bet your intuition!
4 LuxuryとFlamme Martiniの共演!予測可能回避不可能!個人的にはつかさ社長がイケボすぎて惚れちゃった……。
・SWEET♡STEP
咲ちゃんが、本当に美しくて、可愛くて、笑顔で……。僕には咲ちゃんが笑顔で歌って踊ってくれているということが、何よりの喜びです……。
・ MOON NIGHTのせいにして
うわああああああああああ!!
僕は咲耶verの「おいで」に撃ち抜かれました。
・花ざかりWeekend✿
助けて!!!!!!!!
YPT→ベッチュア→ムンナイ→花ざかりはアホのセトリだろ……!!
4luxuryと他マス大人組の共演は予測可能回避不可能その2!律っちゃんが三船さんの手を引くような雰囲気があって良かった……。
・待ち受けプリンス
死んじゃう!!死んじゃうよ!!!!!
ひとみんas真乃ちゃんに待ち受けプリンス歌わせるのは悪魔の所業すぎる……。咲ちゃんもso cuteだった。
・Destiny
UOが……尽きたよ…………。
何度聞いてもDestinyは泣いてしまう。
『もし離れたって信じてるから 必ずまた逢えることを 上手く言葉にできないけど だってきっと運命だよね?』
・CRYST@LOUD
day1ちょっとあやふやだったからday2はAPかっしーの動画を散々見て練習してクラップ完璧にした。
『全愛全瞬間を Crystlize!』の高揚感が大好き。
・M@STER PIECE
今回2日間奇跡のような時間を見せられて、アイドルマスターの未来に沢山夢を見たくなった。
その上で2014年発表の曲をマスターピース(決定盤)と言われてしまうのは、正直引っかかるところはあった。
ただその疑問は終演後のiDOLM@STER 2nd vision消灯→3.0vision点灯で氷解した。
今回のMOIW2023は本来2020年にやるつもりだった合同ライブの生まれ変わった姿であること。
「これまでのアイドルマスター」の総決算がこのライブであり、そのグランドフィナーレがM@STER PIECEだったんだ。
THE IDOLM@STER M@STERS OF IDOL WORLD!!!!! 2023、本当に、本当に美しい景色を見せてくれました。
でも僕たちはこれから、もっと美しい空をきっと見るさ。
もっと美しい空を、これから一緒に見に行こう。
そう思わせてくれて、希望をくれて、本当にありがとう。
MOIW2023感想day1
アイドルアニメと社会性
こちらの記事を読んで、近年増えつつある「アイドルアニメ」について、自分なりに考えてみたくなりました。
“藤津亮太のアニメ時評 四代目 アニメの門 第12回『アイカツ!』『THE IDOLM@STER』『Wake Up, Girls!』』『ラブライブ!』” http://bonet.info/review/8019
以下、『THE IDOLM@STER』、『アイカツ!』、『ラブライブ!』などの諸作品におけるアイドルの描かれ方を比較しつつ、アイドルアニメとは何か、アニメーション・映像作品におけるアイドルというものの意味について、考えていきたいと思います。
まずはじめに、アイドルアニメというのは「部活アニメ」です。では部活アニメとは何か。それは「社会」の疑似体験アニメです。
社会に出る前の青少年が組織され、限定的に社会にコミットする時、それは一般にクラブ活動・部活動と呼ばれます。目標を設定し、集団の意識を統一して目標の達成の為に行動する。それが部活動であり、その困難と達成を描くのが部活アニメです。そしてクラブが擬似企業、クラブ活動が模擬お仕事、社会参加の疑似体験である以上、十分にスケールアップした部活アニメは、お仕事アニメと同義です。*1。
他のスポーツやお仕事でなく*2アイドルという題材が選ばれたのは、(現実にAKBをはじめとしたアイドルブームが続いているからということの他に)アイドルという題材であればどこまでもスケールを拡大していけるからに他なりません。
『アイカツ!』にしろ『THE IDOLM@STER』にしろ、アイドル活動は「少女と外の世界を繋ぐもの」として描かれています。*3日常描写とお仕事描写が交互に頻出する『アイカツ!』などからは強くそれを感じられます。
多くの作品において、アイドル達はトップアイドルを目指して努力しています。その過程で「一流のアイドルと駆け出しの自分との圧倒的力量差」「評価されなかったら自分の存在そのものが否定される恐ろしさ」「評価されたら今度は自分自身が消費され自由と自分の意志を失っていく辛さ」などと立ち向かうことになります。
彼女達はそういった数々の試練を乗り越えて「社会における自分の役割」「社会との距離の取り方」「逆に社会の評価と関係なく確固として存在する家族・帰る場所の存在の大切さ」などを学び、成長していきます。
『Wake Up Girls!』において作中終盤で島田真夢の語る幸福論、また、『THE IDOLM@STER』において主人公天海春香が自分自身と仲間との想いのすれ違い、社会に求められるアイドル像との間で板挟みに遭い、最終的に「歌うこと」を通して突破口を開く展開。いずれも個人・アイドルという仕事・自己実現の3つが強固に結びついた描写です。
古典的アイドルアニメはいわば「アイドル活動を通した社会参加を経て自己実現を達成していく物語」といえるでしょう。
アイドルという言葉こそ作中で出てこなかったものの、接近したジャンルの作品として『TARI TARI』がありました。作中で主人公達は自分達の部活を立ち上げ活動する訳ですが、*4もう枯れ果てたはずの学校の魅力を丁寧に掘り起こし、地道な活動を続けて実績を積み重ね、最後に立ちはだかる未来を諦めた大人の心を、若者の情熱で溶かし解していく、その展開はお仕事ものドラマによく見られる「零細企業の立て直しドラマ」を想起させるものでした。
部活の立ち上げから始まる作品としては『ラブライブ!』一期の展開も同様でしたが、かの作品は部活アニメではあっても、お仕事アニメという印象は受けません。それはなぜか。それは作中の主人公達の部活動の姿勢(=社会参加の姿勢)がとてもラジカルなものであったからです。
彼女らは社会に対してこうしよう!という姿勢を表明しません。絶対甲子園優勝するぞ!というノリではありません(全国優勝するけど)。あくまで自分達がやりたいから、自分達の夢を叶えたいから、というモチベーションで彼女らは活動します。主人公達μ'sの9人が自分達以外を話題に出すことはほぼなく、画面にも9人以外が映ることが滅多にない。彼女らは(スクールアイドル日本一を決める大会である)ラブライブ優勝を目指すものの、ラブライブとは、スクールアイドルとは社会においてどういう存在なのか、明示されることはほぼありません。ライバルの存在も希薄で、μ'sがランキング的にどの程度の立ち位置なのかもはっきりしないまま物語が進みます。この傾向は(廃校阻止という目的の無くなった)アニメ2期においてより顕著です。
その点において『Wake Up Girls!』や『THE IDOLM@STER』はとても古典的で、『ラブライブ!』とは対照的でした。前2作においては「苦難があっても乗り越えていこう、最高のステージを見せよう、だってファンが待ってるんだから」といったノリをはっきり表明しています。
『ラブライブ!』にも同様の試練はあるのですが、もっと軽々と乗り越えていく。そこにファンへの思いやアイドル活動を続ける意味などの、外の世界へ視線が向くことは稀で、自分のことを可愛いと思えるかどうか、仲間との思い出を作れるかといったごく個人的経験、体感的なものに根本的なアイデンティティが置かれていたように思います。社会奉仕による自己実現といった、古典的な言葉とは離れた価値観でμ'sの9人は動いていました。
目標を達成したμ'sの9人はμ'sを解散し、物語は完結します。これが企業だったら、自分が辞めると同時に企業解散なんてとんでもないとなりますが、μ'sの9人はあくまで閉じた世界で、自分達の体験としてのアイドル活動を続けていました。それ故にμ'sを解散することでこの体験と絆を自分達だけのものとし、自分達なりの自己実現を達成していました*5。
『けいおん!』とともに、ポストスポ根、ポスト部活ものとして『ラブライブ!』を捉えることも出来るでしょう。
『けいおん!』をはじめとしたいわゆる「日常系」と呼ばれるアニメが流行した時代から、『魔法少女まどか☆マギカ』のブレイクを経て、アニメは今再び現代論、文明論(=私たちはこの社会に如何にコミットしていくべきか)を語りつつあります。そしてアイドルアニメには、社会に対し自分達がどういう姿勢で接していくか、という命題が常に内在しています。現在、アイドルアニメが支持されているのはそういった時代の変化と合致しているからと考えます。
この潮流の中で、アニメにおけるアイドルたちはこれから何を語るのか、どんな姿を見せてくれるのか、僕は期待しています。あとらぁらちゃんかわいい。
*1:無力な少女(少年)がアイドル(ロボット)という武器を得ることで外の世界に一歩を踏み出し、成長と挫折を繰り返しながら社会との関係性を学んでいくという読み方をするならば、アイドルものアニメはロボットアニメである、という言い方も出来そうです。
*2:事実『ハナヤマタ』などの部活アニメは現在も盛んに制作されているし、少し遡れば『プラネテス』などのアニメならではのモチーフを扱って、登場人物の葛藤と成長を描いたお仕事アニメも存在しました。
*3:第二の理由として、単純に、女の子が歌って踊る姿は可愛いし、老若男女別け隔てなく心躍るものだ、というのもあると思います。そして政治よりも産業よりも、自分の身一つで行う歌と踊りこそが、今最もプリミティブでリアルな社会参加として共感を得ているように感じます。
*4:当時「廃校阻止もの」とでも呼ぶべき作品が乱立していて一種異様な雰囲気がありましたが。
*5:明確に「自分達の体験・希望を次世代に継承すること」を描写していた『劇場版 THE IDOLM@STER』とは対照的です。
『翠星のガルガンティア』最終回への道筋
急展開を見せる『翠星のガルガンティア』について、大人との関係の観点から、また『革命機ヴァルヴレイヴ』との比較から最終回への展望というか希望、願望を書いてみる。
ロボットアニメにおいて大人の存在はとても重要だ。大人とはつまり社会のことで、少年が初めて触れた社会とどう接し成長するかがロボットアニメの肝だからだ。
そして単純化すると、ロボットアニメには「大人が侮蔑すべきものとして扱われる作品」と「大人が尊敬すべきものとして扱われる作品」の二種類のタイプがある。
今期のアニメで言えば前者が『革命機ヴァルヴレイヴ』、後者が『翠星のガルガンティア』だ。
大人が侮蔑されるロボットアニメにおいては、その糞みたいな大人社会に対して少年がロボットに乗って児戯的に暴れることが肯定される。しかし大人=社会を侮蔑したままでは絶望しかない。最終的に少年はロボットから降りて社会を一歩ずつ良くしていこう、という結論に至る。
この筋でいくと、『ヴァルヴレイヴ』で最終的にはその無敵の力を捨てて、自分達の力で社会にコミットする道を示さなければならない。
一方、大人が尊敬されるロボットアニメにおいては、ロボットに乗ることは「大人の見守る中で子供らしく生きる」行為としてポジティブに扱われる。そういう作品には少年がロボットに乗れる条件として「子供にしかない純真な心を持つこと」が設定されていたりする。そういう作品において「ロボットを降りる」行為は幼年期の卒業として扱われる。
『ガルガンティア』の場合、レド君の幼年期はあまり幸福ではなかった。マシンキャリバーに乗って戦うことは「大人の言いなりになって子供の役割を果たすこと」だった。今までひたすらに大人=銀河同盟の言いなりで生きてきたレド君は、その価値を見失ったことで自身のアイデンティティを喪失した。でも「ロボットに乗るレド君」は決して無価値ではなかったはずなのだ。ガルガンティア船団での日々は自分の経験と存在が無価値ではないこと、自分らしく生きることが罪ではないことをレド君に気づかせてくれたはずなのだ。
幸福でない幼年期を送ってきたレド君がそのことを思い出し「子供である自分」を肯定した上で、ロボットを降りる(=幼年期を卒業する)道筋を見つけてくれればいいな、と思う。
いわばレド君は教育ママに従って友達も作らず遊びも知らず、ひたすらテストの高得点だけ目指してきた優等生みたいなものだ。それを「テストの点なんて社会に出れば何の意味もないんだよ」と突きつけられたのが10話終了時点での状況だ。
この先レド君がどんな結論を出すのか、最後まで見守っていきたい。でも本当に大事なのはテストの高得点でも友達を作ることでもなく、自分自身の頭で考えて行動することなんだ、ということにレド君が気づいてくれたらいいな、と思う。
ロボットアニメとリアリティ
このtogetterを見て、思ったことを書きます。
リアルロボット物の〝リアル〟ってなにさ?
http://togetter.com/li/494217
ロボットアニメに限らず、あらゆる物語の面白さは「リアリティがあるかどうか」にかかっています。この場合のリアリティは、「統計的事実に基づいている」であるとか「超能力や怪物が出てこない」といった意味ではありません。
リアリティとは、ルールのことです。作品に通底するルールに共感できた時、人はその作品を面白いと感じます。
ルールが途中で曲げられてしまった作品は、優れた作品とは言えません。
たとえば、『天元突破グレンラガン』においては「自分を信じる心が、最後には最も強い力となる」というルールが全編を貫いています。アンチスパイラルが人類にどんなに深い絶望を与えようとも、なおシモンが立ち上がる時、作品のルールは守られていると言えますし、またその姿が、観る者に深い感動を与えるのです。
そしてリアリティには、2種類あります。それは「世界なんて所詮こんなもんだよ」と「世界は本当はこうあって欲しい」です。この二つが合わさると「世界は本当はこうあって欲しいけど、 現実は所詮こんなもんだよ」になります。多くのロボットアニメの導入部が、これです。
「世界なんて所詮…」は、たとえば「戦争はたった一機の兵器で勝てるものではない」や、「外の世界には恐ろしい敵が蠢いていて出たらすぐやられてしまう」などです。また「世界は本当はこうあって欲しい」の例を挙げると、「俺は本当は誰にも負けないくらい強いはずだ」や「人類の叡智を結集すれば事態を打開できるはずだ」になります。
現代の物語においてはこれら複数のリアリティに優劣をつけながら、最も強度のあるルール、リアリティを描いていきます。
いわゆるリアルロボットアニメにおいては、「ロボットに乗って戦場で活躍したいが、人型のロボットが兵器として成立する訳がない」が導入部になります。人型ロボットの存在を許さないような「リアルな戦場」を追求すればするほど、作品に現れたロボット兵器の超常性は増し、その無敵の活躍は観る者の心を揺さぶります。
しかし「リアルな戦場」を追求して設定を突き詰めるあまり、ロボットの存在する余地が無くなってしまう場合があります。 上記togetterの
“やればやるほど現実が強固な壁となって現れてきて、超技術を使わない巨大な人型兵器が、いかにナンセンスなのかを実感することになってしまうのである。”
ということです。(やっと本題に近づいてきた…)
もちろん「リアルな戦場」、つまり「世界なんて所詮…」の方のリアリティを追求することは、その作品を魅力的にします。その作品世界は観る者に『他人事ではない、自分と地続きの世界の話だ』と思わせることができるでしょう。しかし「世界なんて所詮…」の方の強度に勝てないまま、半端に「世界は本当は…」の方のリアリティを出してしまった場合、それは作品の足を引っ張る結果にしかならないでしょう。
これが俗にいう「御都合主義」です。観る者は作品のルールを曲げてしまったと判断し、作品に失望することでしょう。
作劇においては「世界なんて所詮…」を否定せずに、上手く「世界は本当は…」を成立させるようにしなければいけません。 「機動戦士ガンダム」におけるニュータイプ設定は戦争の根本原因になりつつ、ガンダムの活躍とアムロの成長をも説明できる、素晴らしい設定でした。
どうもロボットアニメにおいては設定が過多になりがちで、二つのリアリティのバランスを欠くことが多いようです。しかし二つのリアリティを両立し一貫したストーリーを描けた時、その物語は少年少女に社会を語り、勇気を与える素晴らしいものになることでしょう。
翠星のガルガンティアとロボットアニメ
「 翠星のガルガンティア」を4話まで観ました。最高に面白かった。王道のロボットアニメであり、良質のビルドゥングスロマンになりそうと感じました。
なぜロボットアニメ=ビルドゥングスロマンは面白いのか。それは少年がロボットという力を得て外の世界に飛び出し、成長する姿が人の共感を生むからです。
主人公のレド君は無敵の力を持ち、冷静で的確な判断力も持ち合わせています。これは昨今のアニメのトレンドに沿った、ポピュラーなキャラクター造形です。しかしロボットアニメで無敵な主人公をやり過ぎると、世界観に歪になる恐れがあります。近年の無敵な主人公のさきがけである「機動戦士ガンダムSEED」では、その雄姿が視聴者に大いに支持されましたが、主人公の周りに子供と、主人公を礼賛する大人しかいない環境の異常さを批判する声も一部でありました。
ガンダムSEEDが大人が子供と対立する時代の終わりを告げてから、10年が経ちました。ガルガンティアにおける大人も科学的技術においてレド君に圧倒的に劣り、野蛮です。しかしレド君もまた、地球の社会については全くの無知です。
レド君は文明レベルの劣る異郷の人々から食べ物を貰い、仕事を果たし、徐々に地球の社会の仕組み、人間らしい暮らしを学んでいきます。ここにスタッフの〝大人もまだ捨てたもんじゃないんだぜ〟という意志を感じました。
2話ラストの海賊殲滅からの3話の和解への流れは、ブライトさんに殴られたアムロを思い起こします。少年の全能感と社会との擦り合わせは、ロボットアニメの王道的テーマです。
ガルガンティアに登場する地球の人々は、おおむね皆善人です。当初は余所者であるレド君を警戒し、排斥しようとする人もいましたが、徐々にレド君と打ち解け、レド君は船団での居場所を手に入れつつあります。
しかしロボットアニメにおける善人が、退場しなかった例はありません。ガンダムのリュウ・ホセイも、エウレカセブンのビームス夫妻も短い登場期間の後に死んでいきました。善意ある大人の庇護の下では、少年は大人にはなれません。そもそも外宇宙の戦争を置き去りにして、レド君が地球という楽園に落ち着いてしまっていいのかという疑問もあります。いずれ必ず、今のレド君と船団の関係をぶち壊す存在が現れるでしょう。
でもたとえどんな破滅的な展開になろうとも、最終的にレド君が世界に対して絶望して終わるような結末にはならないでしょう。1話ラストを観てそう感じました。
あのレド君が生まれて初めて見た夜明けの空の美しさは、〝世界はこんなにも美しいんだぜ、お前が思ってるほど冷たくて悲しいものばかりじゃないんだぜ〟とスタッフがレド君に、それを観ている少年少女たちに訴えているように感じました。
「翠星のガルガンティア」の今後の展開が楽しみです。
ちはやふる13話が面白かった
「ちはやふる」13話見た!面白かった!ホント良く出来てる。以下感想。原作は未読。
過不足無く収まるところに収まってるというか。ちはやの「ムラッ気がある」ていう設定は展開の都合で強弱自在だから便利だよね。SLAMDUNKの桜木とかもそうだけど。
ちはやふるは対戦型のスポーツを題材に取った作品なのに、対戦相手の描写が極度に少ないのが特徴かも。ちはやにとっての危機は常に内部で進行している。(だいたい新がらみで)。
そして新の中の、「じいちゃんを死なせてしまったかるた」という思いが、「じいちゃんとの絆をつなぐためのかるた」に生まれ変わる。素晴らしいなあ。完璧だな。
「ちはやふる」は、登場人物の数を最小限に抑えてあるのが、ちゃんとドラマが成立してる要因な気がする。本当に過不足ないとしか言い様がない。
全国団体戦の様子を見せなかったのは2年目に取っておいたのだろう。ラスボスっぽい人も出てきたし。今後の展開が楽しみだ。以上感想終わり。