アイドルアニメと社会性

 こちらの記事を読んで、近年増えつつある「アイドルアニメ」について、自分なりに考えてみたくなりました。 

藤津亮太のアニメ時評 四代目 アニメの門 第12回『アイカツ!』『THE IDOLM@STER』『Wake Up, Girls!』』『ラブライブ!』” http://bonet.info/review/8019

 以下、『THE IDOLM@STER』、『アイカツ!』、『ラブライブ!』などの諸作品におけるアイドルの描かれ方を比較しつつ、アイドルアニメとは何か、アニメーション・映像作品におけるアイドルというものの意味について、考えていきたいと思います。





 まずはじめに、アイドルアニメというのは「部活アニメ」です。では部活アニメとは何か。それは「社会」の疑似体験アニメです。
 社会に出る前の青少年が組織され、限定的に社会にコミットする時、それは一般にクラブ活動・部活動と呼ばれます。目標を設定し、集団の意識を統一して目標の達成の為に行動する。それが部活動であり、その困難と達成を描くのが部活アニメです。そしてクラブが擬似企業、クラブ活動が模擬お仕事、社会参加の疑似体験である以上、十分にスケールアップした部活アニメは、お仕事アニメと同義です。*1

 他のスポーツやお仕事でなく*2アイドルという題材が選ばれたのは、(現実にAKBをはじめとしたアイドルブームが続いているからということの他に)アイドルという題材であればどこまでもスケールを拡大していけるからに他なりません。
 『アイカツ!』にしろ『THE IDOLM@STER』にしろ、アイドル活動は「少女と外の世界を繋ぐもの」として描かれています。*3日常描写とお仕事描写が交互に頻出する『アイカツ!』などからは強くそれを感じられます。

 多くの作品において、アイドル達はトップアイドルを目指して努力しています。その過程で「一流のアイドルと駆け出しの自分との圧倒的力量差」「評価されなかったら自分の存在そのものが否定される恐ろしさ」「評価されたら今度は自分自身が消費され自由と自分の意志を失っていく辛さ」などと立ち向かうことになります。
 彼女達はそういった数々の試練を乗り越えて「社会における自分の役割」「社会との距離の取り方」「逆に社会の評価と関係なく確固として存在する家族・帰る場所の存在の大切さ」などを学び、成長していきます。

 『Wake Up Girls!』において作中終盤で島田真夢の語る幸福論、また、『THE IDOLM@STER』において主人公天海春香が自分自身と仲間との想いのすれ違い、社会に求められるアイドル像との間で板挟みに遭い、最終的に「歌うこと」を通して突破口を開く展開。いずれも個人・アイドルという仕事・自己実現の3つが強固に結びついた描写です。
 古典的アイドルアニメはいわば「アイドル活動を通した社会参加を経て自己実現を達成していく物語」といえるでしょう。

 アイドルという言葉こそ作中で出てこなかったものの、接近したジャンルの作品として『TARI TARI』がありました。作中で主人公達は自分達の部活を立ち上げ活動する訳ですが、*4もう枯れ果てたはずの学校の魅力を丁寧に掘り起こし、地道な活動を続けて実績を積み重ね、最後に立ちはだかる未来を諦めた大人の心を、若者の情熱で溶かし解していく、その展開はお仕事ものドラマによく見られる「零細企業の立て直しドラマ」を想起させるものでした。





 部活の立ち上げから始まる作品としては『ラブライブ!』一期の展開も同様でしたが、かの作品は部活アニメではあっても、お仕事アニメという印象は受けません。それはなぜか。それは作中の主人公達の部活動の姿勢(=社会参加の姿勢)がとてもラジカルなものであったからです。

 彼女らは社会に対してこうしよう!という姿勢を表明しません。絶対甲子園優勝するぞ!というノリではありません(全国優勝するけど)。あくまで自分達がやりたいから、自分達の夢を叶えたいから、というモチベーションで彼女らは活動します。主人公達μ'sの9人が自分達以外を話題に出すことはほぼなく、画面にも9人以外が映ることが滅多にない。彼女らは(スクールアイドル日本一を決める大会である)ラブライブ優勝を目指すものの、ラブライブとは、スクールアイドルとは社会においてどういう存在なのか、明示されることはほぼありません。ライバルの存在も希薄で、μ'sがランキング的にどの程度の立ち位置なのかもはっきりしないまま物語が進みます。この傾向は(廃校阻止という目的の無くなった)アニメ2期においてより顕著です。

 その点において『Wake Up Girls!』や『THE IDOLM@STER』はとても古典的で、『ラブライブ!』とは対照的でした。前2作においては「苦難があっても乗り越えていこう、最高のステージを見せよう、だってファンが待ってるんだから」といったノリをはっきり表明しています。
 『ラブライブ!』にも同様の試練はあるのですが、もっと軽々と乗り越えていく。そこにファンへの思いやアイドル活動を続ける意味などの、外の世界へ視線が向くことは稀で、自分のことを可愛いと思えるかどうか、仲間との思い出を作れるかといったごく個人的経験、体感的なものに根本的なアイデンティティが置かれていたように思います。社会奉仕による自己実現といった、古典的な言葉とは離れた価値観でμ'sの9人は動いていました。
 目標を達成したμ'sの9人はμ'sを解散し、物語は完結します。これが企業だったら、自分が辞めると同時に企業解散なんてとんでもないとなりますが、μ'sの9人はあくまで閉じた世界で、自分達の体験としてのアイドル活動を続けていました。それ故にμ'sを解散することでこの体験と絆を自分達だけのものとし、自分達なりの自己実現を達成していました*5
 『けいおん!』とともに、ポストスポ根、ポスト部活ものとして『ラブライブ!』を捉えることも出来るでしょう。





 『けいおん!』をはじめとしたいわゆる「日常系」と呼ばれるアニメが流行した時代から、『魔法少女まどか☆マギカ』のブレイクを経て、アニメは今再び現代論、文明論(=私たちはこの社会に如何にコミットしていくべきか)を語りつつあります。そしてアイドルアニメには、社会に対し自分達がどういう姿勢で接していくか、という命題が常に内在しています。現在、アイドルアニメが支持されているのはそういった時代の変化と合致しているからと考えます。

 この潮流の中で、アニメにおけるアイドルたちはこれから何を語るのか、どんな姿を見せてくれるのか、僕は期待しています。あとらぁらちゃんかわいい。

*1:無力な少女(少年)がアイドル(ロボット)という武器を得ることで外の世界に一歩を踏み出し、成長と挫折を繰り返しながら社会との関係性を学んでいくという読み方をするならば、アイドルものアニメはロボットアニメである、という言い方も出来そうです。

*2:事実『ハナヤマタ』などの部活アニメは現在も盛んに制作されているし、少し遡れば『プラネテス』などのアニメならではのモチーフを扱って、登場人物の葛藤と成長を描いたお仕事アニメも存在しました。

*3:第二の理由として、単純に、女の子が歌って踊る姿は可愛いし、老若男女別け隔てなく心躍るものだ、というのもあると思います。そして政治よりも産業よりも、自分の身一つで行う歌と踊りこそが、今最もプリミティブでリアルな社会参加として共感を得ているように感じます。

*4:当時「廃校阻止もの」とでも呼ぶべき作品が乱立していて一種異様な雰囲気がありましたが。

*5:明確に「自分達の体験・希望を次世代に継承すること」を描写していた『劇場版 THE IDOLM@STER』とは対照的です。