ロボットアニメとリアリティ

このtogetterを見て、思ったことを書きます。
リアルロボット物の〝リアル〟ってなにさ?
http://togetter.com/li/494217

ロボットアニメに限らず、あらゆる物語の面白さは「リアリティがあるかどうか」にかかっています。この場合のリアリティは、「統計的事実に基づいている」であるとか「超能力や怪物が出てこない」といった意味ではありません。

リアリティとは、ルールのことです。作品に通底するルールに共感できた時、人はその作品を面白いと感じます。
ルールが途中で曲げられてしまった作品は、優れた作品とは言えません。

たとえば、『天元突破グレンラガン』においては「自分を信じる心が、最後には最も強い力となる」というルールが全編を貫いています。アンチスパイラルが人類にどんなに深い絶望を与えようとも、なおシモンが立ち上がる時、作品のルールは守られていると言えますし、またその姿が、観る者に深い感動を与えるのです。

そしてリアリティには、2種類あります。それは「世界なんて所詮こんなもんだよ」と「世界は本当はこうあって欲しい」です。この二つが合わさると「世界は本当はこうあって欲しいけど、 現実は所詮こんなもんだよ」になります。多くのロボットアニメの導入部が、これです。

「世界なんて所詮…」は、たとえば「戦争はたった一機の兵器で勝てるものではない」や、「外の世界には恐ろしい敵が蠢いていて出たらすぐやられてしまう」などです。また「世界は本当はこうあって欲しい」の例を挙げると、「俺は本当は誰にも負けないくらい強いはずだ」や「人類の叡智を結集すれば事態を打開できるはずだ」になります。
現代の物語においてはこれら複数のリアリティに優劣をつけながら、最も強度のあるルール、リアリティを描いていきます。

いわゆるリアルロボットアニメにおいては、「ロボットに乗って戦場で活躍したいが、人型のロボットが兵器として成立する訳がない」が導入部になります。人型ロボットの存在を許さないような「リアルな戦場」を追求すればするほど、作品に現れたロボット兵器の超常性は増し、その無敵の活躍は観る者の心を揺さぶります。
しかし「リアルな戦場」を追求して設定を突き詰めるあまり、ロボットの存在する余地が無くなってしまう場合があります。 上記togetter

“やればやるほど現実が強固な壁となって現れてきて、超技術を使わない巨大な人型兵器が、いかにナンセンスなのかを実感することになってしまうのである。”

ということです。(やっと本題に近づいてきた…)
もちろん「リアルな戦場」、つまり「世界なんて所詮…」の方のリアリティを追求することは、その作品を魅力的にします。その作品世界は観る者に『他人事ではない、自分と地続きの世界の話だ』と思わせることができるでしょう。しかし「世界なんて所詮…」の方の強度に勝てないまま、半端に「世界は本当は…」の方のリアリティを出してしまった場合、それは作品の足を引っ張る結果にしかならないでしょう。
これが俗にいう「御都合主義」です。観る者は作品のルールを曲げてしまったと判断し、作品に失望することでしょう。
作劇においては「世界なんて所詮…」を否定せずに、上手く「世界は本当は…」を成立させるようにしなければいけません。 「機動戦士ガンダム」におけるニュータイプ設定は戦争の根本原因になりつつ、ガンダムの活躍とアムロの成長をも説明できる、素晴らしい設定でした。

どうもロボットアニメにおいては設定が過多になりがちで、二つのリアリティのバランスを欠くことが多いようです。しかし二つのリアリティを両立し一貫したストーリーを描けた時、その物語は少年少女に社会を語り、勇気を与える素晴らしいものになることでしょう。