『翠星のガルガンティア』最終回への道筋

急展開を見せる『翠星のガルガンティア』について、大人との関係の観点から、また『革命機ヴァルヴレイヴ』との比較から最終回への展望というか希望、願望を書いてみる。

ロボットアニメにおいて大人の存在はとても重要だ。大人とはつまり社会のことで、少年が初めて触れた社会とどう接し成長するかがロボットアニメの肝だからだ。

そして単純化すると、ロボットアニメには「大人が侮蔑すべきものとして扱われる作品」と「大人が尊敬すべきものとして扱われる作品」の二種類のタイプがある。
今期のアニメで言えば前者が『革命機ヴァルヴレイヴ』、後者が『翠星のガルガンティア』だ。

大人が侮蔑されるロボットアニメにおいては、その糞みたいな大人社会に対して少年がロボットに乗って児戯的に暴れることが肯定される。しかし大人=社会を侮蔑したままでは絶望しかない。最終的に少年はロボットから降りて社会を一歩ずつ良くしていこう、という結論に至る。
この筋でいくと、『ヴァルヴレイヴ』で最終的にはその無敵の力を捨てて、自分達の力で社会にコミットする道を示さなければならない。

一方、大人が尊敬されるロボットアニメにおいては、ロボットに乗ることは「大人の見守る中で子供らしく生きる」行為としてポジティブに扱われる。そういう作品には少年がロボットに乗れる条件として「子供にしかない純真な心を持つこと」が設定されていたりする。そういう作品において「ロボットを降りる」行為は幼年期の卒業として扱われる。

ガルガンティア』の場合、レド君の幼年期はあまり幸福ではなかった。マシンキャリバーに乗って戦うことは「大人の言いなりになって子供の役割を果たすこと」だった。今までひたすらに大人=銀河同盟の言いなりで生きてきたレド君は、その価値を見失ったことで自身のアイデンティティを喪失した。でも「ロボットに乗るレド君」は決して無価値ではなかったはずなのだ。ガルガンティア船団での日々は自分の経験と存在が無価値ではないこと、自分らしく生きることが罪ではないことをレド君に気づかせてくれたはずなのだ。
幸福でない幼年期を送ってきたレド君がそのことを思い出し「子供である自分」を肯定した上で、ロボットを降りる(=幼年期を卒業する)道筋を見つけてくれればいいな、と思う。

いわばレド君は教育ママに従って友達も作らず遊びも知らず、ひたすらテストの高得点だけ目指してきた優等生みたいなものだ。それを「テストの点なんて社会に出れば何の意味もないんだよ」と突きつけられたのが10話終了時点での状況だ。
この先レド君がどんな結論を出すのか、最後まで見守っていきたい。でも本当に大事なのはテストの高得点でも友達を作ることでもなく、自分自身の頭で考えて行動することなんだ、ということにレド君が気づいてくれたらいいな、と思う。