知ったかぶりをする癖を治そうと思うが、治さなくてもいいかとも思う。

 知ったかぶりをする癖を治そうと思うが、治さなくてもいいかとも思う。



 小林秀雄は「ロシア小説を読む際に、ロシア語を学ぶ必要はない。訳書を読めば十分」というようなことを言っていた。
 これはあまり一般的な考えではないと思う。
 やはり「ドストエフスキーを読むのであれば、トルストイも読んでおいた方がいいし、当時のロシア文化、政治、歴史を知っていればなお良い。原書で読めればそれが一番良い」という意見が多数派なのではないだろうか。
 
 これはつまり「そのテキスト内の真実を掴むためには、主観的な想像を廃し、テキスト周辺の情報を集めることが必要だ。また、原書で読めば訳者のノイズが入ることもない。その結果、客観的なテキストの真実が手に入る」ということなのだろう。

 それは、おおまかに言って間違いないように思う。
 ではなぜ、秀雄は、その世間一般の考えに反するような主張をしたのだろう。

 おそらく彼は、客観的な事実なぞどうでもよかったのだ。
 ただただ思索を。個人的な論理と文脈の奔りをこそ求めていて、社会的な事実を見抜くとか、どうでもよかったのだ。
 秀雄の、能や絵画や音楽について語る文章を読むと、心底そう思う。
 彼にとって対象は単なる思索のきっかけであって、本当に大事なのは対象に接した時の感動なのだ、という感じ。
 
 それはただの感想ではないか、批評ではないという意見もあろう。もちろん秀雄は自分の感動に共感してほしい訳ではない。作品の中から、人間の真実を探ろうという意思はある。
 ただ彼が外界との接触に用いるのは、言語だけなのだ。この言語という不自由なツールのみで、彼は人間の、世界の、宇宙の真実に辿り着こうと目指していて、それは可能なのだ、と証明しているのが、彼の作品群だと思う。



 なんだか思った以上に、小林秀雄について語ってしまった。こんなはずではなかったのに。
 まあ要するに、自分がちょっといい加減なことを言っても、それは自分の考えの中では真実なので、許して下さいってことで。すいません嘘です直します。



 最後に。小林秀雄の発言の出典についても、文中で述べたようになくてもまあいいじゃないってことで許して下さい。でもこれは彼の名誉に関わることなので、出来れば今後追記して、出典を明示したいと思います。