「熱血」とは何か

 以前mixiで書いたものを転載してみます。






 「熱血」とは何か、最近考えている。熱血とはつまり「友情・努力・勝利」の文脈の事だ。




 たとえば『天元突破グレンラガン』に熱血アニメの洗練された姿を見る時、あるいは『吼えろペン』の相対化された熱血を笑うとき、また『JAM PROJECT』の定型化され、様式美と化した熱血に閉塞を感じる時、ここに共通する文脈は何なのかと思う。それはいつの間に生まれ、洗練し、定型化されたのか。




 熱血と評される作品の中で私の知る最も古い作品の一つに、『巨人の星』がある。しかしそれ以前にも「友情・努力・勝利」を謳う作品はあったはずだ。おそらく週刊少年マガジン創刊の時から、その概念は存在したはずだ。ではマガジン編集部はその概念をどこで学んだのか。小説か、映画か。それ以前はどうか。遡っていくと、やはり古典作品に行き着くのだろうか。

 桃太郎の昔話?違う。桃太郎とお供の動物達にあるのは主従の関係で、友情はない。友情・友愛の概念は明治以前の日本人にはなかったものだ。
 武士社会のプライベートで築かれた関係は「義兄弟」であり、これは義兄と義弟という上下関係で成立するものだ。
 農村においても同様で、プライベートでの関係は「隣組」(あるいは氏子組)に基づくものであり、これは生まれ年による上下関係構築の慣習である(地域によっては同じ生まれ年の者同士を人まとまりにして組ごとで上下を分け、同年の組内では対等の関係が成立していたりするので、この辺りは異論があるかも…)。
 いずれも君臨と服従を基軸とした人間関係であり、友情・友愛といった言葉とは結びつかない。そして、努力・勝利といった言葉も、敵を持たず、停滞した時を過ごした近世の人が持たなかった言葉だ。

 では日本人が「友情・努力・勝利」の言葉を発見したのはいつなのか。それはおそらく明治維新後、近代化教育を明治政府が志した時ではないだろうか。

 「友情・努力・勝利」を自我に基づく目標に向けた行動とその実現と定義するならば、それは近代社会が要請する個人のモデルと一致する。そしてここまで抽象化すると一つの疑問が生じてくる。
 それはつまりビルドゥングス・ロマンではないのかという事だ。しかし、「熱血」とビルドゥングス・ロマンは完全に同一ではない。そしてその差異にこそ、日本の近代の導入の結果が表れており、ひいては日本人のメンタリティを透かし見る事が出来るのではないか。そう考えている。

 では明治政府の教育政策の一環として「友情・努力・勝利」の文脈を導入したのかどうか、私は浅学にして明治の教育政策の方針について詳細を知らないが、修身(今でいう道徳のような科目)の授業の際には近代的自我のありかたについて語られていたはずだ。

 ここで近代的自我、という概念について確認しておこう。近代的自我は自身の理性への信頼、さらに全ての他者の近代的自我の保持への信頼、目標に向けた行動とその実現を至上とする考え、この3つへの前提的、全面的、絶対的信頼によって成立する。これは民主主義社会の根幹を成すものでもある。
 ビルディングスロマンは野生たる子供が社会に出て経験を得て、自我を手に入れる物語だが、日本ではこの概念はどの様に受け入れられたか。それは日本古来の無常観、イノセンスとしての幼児性への信仰(「DRAGON BALL」や歌舞伎「暫」に見られるような)、悲劇嗜好などの影響を経て、近代日本独自の精神性として洗練されていった。旧来のビルディングス・ロマンと日本版ビルディングス・ロマン「熱血」の違いについて、天元突破グレンラガンの最終話を例に挙げて解説していく。
 
 天元突破グレンラガン最終話「天の光はすべて星」において、絶望を説き、進化しようとする意思を否定したアンチスパイラルに対し、希望を語り、決して諦めない意思を主張したシモンが描かれたが、この“破滅が見えているのに希望を持ち、諦めない意思”に注目したい。
 ビルディングス・ロマンにおいて、自我の価値は社会での成功によって担保されるが、熱血の文脈では成功は忌避される。
 日本では社会はいつ崩壊するか分からない、崩壊しても構わない、という考えの下に、社会が滅んでもなお生き残る精神、という考えが尊ばれる。このあたりの理論はジョジョの奇妙な冒険第五部「今にも落ちてきそうな空の下で」で警官が語る“真実に向かおうとする意思”のくだりを参照しても分かりやすい(余談だがジョジョは絵柄のせいで誤解されやすいが、そのストーリープロットは王道的熱血少年漫画である点を主張しておく)。
 この考えは一歩間違えば個人的で独善的な思考に陥りがちな思想だが、そういう意味でも相対的にものを見る考えを潔しとせず、テーゼに対して絶対的に信仰することを尊ぶ日本人らしい思想といえる。
 グレンラガン全編を見渡してみてもその点は同様で、よく見るとシモンたちは負け続けているという事が分かる。まずリーダーのカミナを失い、さらに倒したはずの螺旋王は実はより大きな脅威から人類を守っていたし、大グレン団は7年の倦怠を経て瓦解し、アンチスパイラルを倒してもニアのあの結末があった。
 グレンラガンにおいても、熱血はそれを信じていれば勝てるから信じる、ではなく、負けてもなおそれを捨てないで戦い続ける、というやりかたでその価値を描いているのだ。最終話Cパートですべてを捨て、放浪者となった20年後のシモンも同様だ。全てを失い、老いさらばえてもなお、笑っていられる強さこそ、グレンラガンが最後に到達した地点なのだ。

 純化した精神論、精神論によって価値が与えられた精神論は決して否定されない、無敵の螺旋だという点をここまで述べたが、それは突き詰めるところ非敗の理論だ。旧日本軍の敗北の軌跡がそれを証明している。御伽噺であることが許されるアニメなら(あるいはグレンラガンが2部までのアニメなら)それも許されただろうが、グレンラガンはそれを許さなかった。熱血の文脈は今に伝えるべき思想なのだ。
 それを支えるのが「世代交代」の思想だ。今は負けてもいい、精神さえ負けていなければ。そして勝つのは次の世代に任せる、という訳だ。この世代交代の思想が熱血の思想の負の部分をカバーすることによって、熱血の思想は社会性を持ちうる。この熱血と世代交代の融合という思想も、意外に“受け継いでいく”という思想とそりが合わない西洋の近代社会には無かった発想だ。



 世界のスーパーフラット化が進み、全ての思想が相対化、平均化されつつある現在、この熱血の文脈が持つ、絶望が見えてもなお前進を止めない、今負けても次の世代が、その世代が負けても更に次の世代が、という思想こそ、現状の停滞を突破できるのではないかと信じている。