涼宮ハルヒの消失」観てきました。最っ高に面白かった!僕もあんな高校生活送りたかった!以下感想。







 以前谷口悟朗監督がインタビューで答えていた

『人間が欲しがるもの、好むものは昔からおんなじで、友達が欲しい、彼氏彼女が欲しい、誰かに勝ちたい、誰かを思い通りに動かしてみたい、というようなことなんですよ。』

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080820/168407/?P=1

 という話を思い出した。



 そうなのだ!少年たちは、いや僕は、ロボットなんか乗りたくないんだ!(今の子供はロボットなんか乗りたくないと言ったのは、オトナアニメでの大河内一楼だったかな?)友達とバカやっていたいんだ、可愛い女の子に振り回されたいんだ、やれやれとか言いながら、トラブルに巻き込まれたいんだ!誰も傷つけたくないし、自分の自意識を傷つけられたくない。そういう欲望を全力で具現化したのが、「涼宮ハルヒの消失」であり、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品の本質なんだ。



 後半のアクションパートよりも、前半の日常芝居に多くの動画枚数を割いたのも頷ける。あの日常こそが全てなんだ。あの甘いアメがあるから、後半のシリアス展開に耐えられる。あの日常を取り戻そうとキョンは発奮し、視聴者も一緒になって興奮できる。
 あの異常に多いキョンのモノローグもそうだ。あれも視聴者のキョンへの感情移入を強くするためだ。キョンのぼやきつきで、ハルヒやみくるちゃんや諸々のドタバタを(グリグリ動くあの作画で)眺めるときのあの甘美!

涼宮ハルヒの憂鬱」は、視聴者がキョンに感情移入して、あの世界に溶け込むのが一番楽しいのだ。いや主人公に感情移入するのは当たり前のことなんだけど、この作品はそれこそが全てなんだ。
 視聴者は頭の中は観察者の立場のままで、身体だけ当事者になれるのだ。こんな快楽があるだろうか。だから終盤のキョンの決断のシーンが盛り上がる。意を決して観察者の立場から、当事者の立場にジャンプする。するとそこには夢にまで見た理想の世界が広がっている。こんなに素晴らしいことはない。



 だからこそ、もしこの作品の欠点を挙げるとするならば、その自意識過剰な点だろう。この作品は、“意を決してジャンプできなかった”人のための作品だ。その自意識過剰ゆえに身動きが取れなかった、さんざっぱら逡巡して、遂にジャンプできなかった少年たちが、“もしかしたら有り得たかもしれなかった可能性”として夢見た世界なのだ。
 だからその自意識過剰さに共感できなければ、この作品は決して楽しめないだろう。具体的に言うと、僕は終盤のキョンの自問自答に若干違和感を覚えた。“いやそんな迷うことじゃないだろう、普通に楽しんでたじゃん”と思った。端的に言うと、キョンのモノローグうぜぇとか思ったらもうダメだ。



 もしそういうものが気にならなそうだったら、是非見て下さい。個人的には3時間弱の上映時間が全く気にならないぐらい面白かった!あと僕は涼宮ハルヒの憂鬱の大ファンという訳でもないので、事前知識なしでも面白いはずです。
 という訳で、「涼宮ハルヒの消失」大変素晴らしい作品でした。

夏期アニメと、秋期アニメ

 9月までのアニメ感想と、10月からのアニメ第1話感想。




青い花
大変良かった。万城目ふみちゃん最高。あんまり話が暗くなりすぎないまま、爽やかに終わったのも良かった。

CANAAN
カナンの能力喪失→復活の流れがドラマになんの影響も与えなかったとか、マリアのトラウマネタをスルーしたとか、MGS風の陰謀劇が寒いとか、色々と突っ込むところはあるけど、最終話Bパートの良さで全て許してしまう。ゆったりした雰囲気が映画的で良かった。

マジンガー 衝撃!Z編
あのくどいナレーションには最後まで慣れなかったけど、割と面白かった。マジンガーの自慢が丈夫さと怪力ってのがシンプルで良い。
最終回は、あのまま次回作に続かなくてもそれはそれでアリな気がします。あと誰か最後に出てきたシルエットの将軍たちの元ネタを教えておくれ。

バスカッシュ!
結局7話(OCBの契約を蹴っ飛ばす話ね)が面白さのピークだった。シナリオがあんな小さくまとまらずに無茶やれば良かったのに。いっそラスボスとバスカッシュで対決して、ダンたちと友達になるぐらいやれば良かったんだ
ラスボスの人がもっと魅力的ならなぁ。。マクロスFのグレイスと立場ほとんど一緒なのに、なんだあのショボさは。

東京マグニチュード8.0
凄かった。面白いけどなんかヌルいよなーとか思ってたら衝撃の展開。まったく予想してなかった。
今思えばユウキいい子すぎた………ユウキ…忘れないよ…。

化物語
今期最強。素晴らしい。BD欲しい。
取捨選択を考えに考え抜き、最適解を選んだ作品だと思います。異端なようですが、これが最善だと思います。
僕はするがモンキーの話が一番好きです。あとガハラさんと結婚したいです。

涼宮ハルヒの憂鬱
ハルヒキョン(=視聴者)にとって都合の悪い存在であることによって、かろうじてこの作品はドラマとして成立しているのだなと思いました。
僕はキョンハルヒがマジ喧嘩する回が一番好きです。鶴屋さん出番多いし。

以下はこの10月からのアニメ第1話感想。

君に届け
良い。良いなぁ。
能登は声のイメージがついちゃってるのはあるけど、やはり上手い。
浪川も良い。爽子よりむしろ風早くんの方がかわいい。

DARKER THAN BLACK 流星の双子
かなり面白かったです。
お父さんの『過去を見ていても前には進めないんだ!』みたいな台詞を聞いて(あ、このアニメは骨格がちゃんとしてるな)と思いました。1期見てみたい。あと戦闘時の音楽がクールで好き。

ファイト1発!充電ちゃん(正確には再放送だけど)
漂う90年代ムードが好き。あかほりさとる風というか。
あとアニメ内アニメのサービスシーンは、あれをモロでやっちゃうと視聴者がひくので、一枚オブラートに包んだということでしょうか。

生徒会の一存
割と好きです。動かなさすぎワロタだけど。

けんぷファー
展開詰め込むの流行ってるけどこれはないだろwwww
これ今はいいけど、あとで戦う理由とか解説した時にしらけると思う。「いやそんなの関係なく戦ってたじゃん」ってなる。でも茜ちゃん(眼鏡時)はかわいい。



以上です。今期はDTBとおお振り再放送を楽しみにしたいと思います。
ていうか今期はTVより映画です。マクロスF東のエデン。あとセンコロール観たい。

女は見えるものはよく見えているけど、見えないものは全く見えていな

Twitterでつぶやいたたことのまとめ。

女は見えるものはよく見えているけど、見えないものは全く見えていないところがあるよね。逆に男は見えないものによく熱中するけど、目の前の事実が正確に見えていないところがあるよね。


富野監督が「∀の癒し」で仰っているけども、

『しかし次第に、交尾をしたら追い払っていた男たちに、なにかをさせてみようとおもうようになる。子育ての手伝いとか、エサさがしとか、後年になっては農作業とか、集団の運営を任せようとかんがえるようになった。
男たちに家という概念や血統というものを創作して教え込み、男たちにはプライドというものがあるんだよ、と騙したのである』


とあるけど、そういうことなのかな。
今女たちが働いてるのは、男たちが作ってきた社会が行き詰まりを見せているので仕方ないなという感じで、出張ってきているのだと思う。

と思ったら最近は父権の復古みたいな雰囲気もあるので、女が権限を与えて男が奮起する、原初的な遣り取りをやり直そうとしてるのかもしれない。


そういうロボットアニメを作りたい。旧世代の母と、母に与えられた役割に重荷を感じる息子と、それを理解しつつも肩代わりはできない新世代の女みたいな。
 あれ、これはガンダムか。

「熱血」とは何か

 以前mixiで書いたものを転載してみます。






 「熱血」とは何か、最近考えている。熱血とはつまり「友情・努力・勝利」の文脈の事だ。




 たとえば『天元突破グレンラガン』に熱血アニメの洗練された姿を見る時、あるいは『吼えろペン』の相対化された熱血を笑うとき、また『JAM PROJECT』の定型化され、様式美と化した熱血に閉塞を感じる時、ここに共通する文脈は何なのかと思う。それはいつの間に生まれ、洗練し、定型化されたのか。




 熱血と評される作品の中で私の知る最も古い作品の一つに、『巨人の星』がある。しかしそれ以前にも「友情・努力・勝利」を謳う作品はあったはずだ。おそらく週刊少年マガジン創刊の時から、その概念は存在したはずだ。ではマガジン編集部はその概念をどこで学んだのか。小説か、映画か。それ以前はどうか。遡っていくと、やはり古典作品に行き着くのだろうか。

 桃太郎の昔話?違う。桃太郎とお供の動物達にあるのは主従の関係で、友情はない。友情・友愛の概念は明治以前の日本人にはなかったものだ。
 武士社会のプライベートで築かれた関係は「義兄弟」であり、これは義兄と義弟という上下関係で成立するものだ。
 農村においても同様で、プライベートでの関係は「隣組」(あるいは氏子組)に基づくものであり、これは生まれ年による上下関係構築の慣習である(地域によっては同じ生まれ年の者同士を人まとまりにして組ごとで上下を分け、同年の組内では対等の関係が成立していたりするので、この辺りは異論があるかも…)。
 いずれも君臨と服従を基軸とした人間関係であり、友情・友愛といった言葉とは結びつかない。そして、努力・勝利といった言葉も、敵を持たず、停滞した時を過ごした近世の人が持たなかった言葉だ。

 では日本人が「友情・努力・勝利」の言葉を発見したのはいつなのか。それはおそらく明治維新後、近代化教育を明治政府が志した時ではないだろうか。

 「友情・努力・勝利」を自我に基づく目標に向けた行動とその実現と定義するならば、それは近代社会が要請する個人のモデルと一致する。そしてここまで抽象化すると一つの疑問が生じてくる。
 それはつまりビルドゥングス・ロマンではないのかという事だ。しかし、「熱血」とビルドゥングス・ロマンは完全に同一ではない。そしてその差異にこそ、日本の近代の導入の結果が表れており、ひいては日本人のメンタリティを透かし見る事が出来るのではないか。そう考えている。

 では明治政府の教育政策の一環として「友情・努力・勝利」の文脈を導入したのかどうか、私は浅学にして明治の教育政策の方針について詳細を知らないが、修身(今でいう道徳のような科目)の授業の際には近代的自我のありかたについて語られていたはずだ。

 ここで近代的自我、という概念について確認しておこう。近代的自我は自身の理性への信頼、さらに全ての他者の近代的自我の保持への信頼、目標に向けた行動とその実現を至上とする考え、この3つへの前提的、全面的、絶対的信頼によって成立する。これは民主主義社会の根幹を成すものでもある。
 ビルディングスロマンは野生たる子供が社会に出て経験を得て、自我を手に入れる物語だが、日本ではこの概念はどの様に受け入れられたか。それは日本古来の無常観、イノセンスとしての幼児性への信仰(「DRAGON BALL」や歌舞伎「暫」に見られるような)、悲劇嗜好などの影響を経て、近代日本独自の精神性として洗練されていった。旧来のビルディングス・ロマンと日本版ビルディングス・ロマン「熱血」の違いについて、天元突破グレンラガンの最終話を例に挙げて解説していく。
 
 天元突破グレンラガン最終話「天の光はすべて星」において、絶望を説き、進化しようとする意思を否定したアンチスパイラルに対し、希望を語り、決して諦めない意思を主張したシモンが描かれたが、この“破滅が見えているのに希望を持ち、諦めない意思”に注目したい。
 ビルディングス・ロマンにおいて、自我の価値は社会での成功によって担保されるが、熱血の文脈では成功は忌避される。
 日本では社会はいつ崩壊するか分からない、崩壊しても構わない、という考えの下に、社会が滅んでもなお生き残る精神、という考えが尊ばれる。このあたりの理論はジョジョの奇妙な冒険第五部「今にも落ちてきそうな空の下で」で警官が語る“真実に向かおうとする意思”のくだりを参照しても分かりやすい(余談だがジョジョは絵柄のせいで誤解されやすいが、そのストーリープロットは王道的熱血少年漫画である点を主張しておく)。
 この考えは一歩間違えば個人的で独善的な思考に陥りがちな思想だが、そういう意味でも相対的にものを見る考えを潔しとせず、テーゼに対して絶対的に信仰することを尊ぶ日本人らしい思想といえる。
 グレンラガン全編を見渡してみてもその点は同様で、よく見るとシモンたちは負け続けているという事が分かる。まずリーダーのカミナを失い、さらに倒したはずの螺旋王は実はより大きな脅威から人類を守っていたし、大グレン団は7年の倦怠を経て瓦解し、アンチスパイラルを倒してもニアのあの結末があった。
 グレンラガンにおいても、熱血はそれを信じていれば勝てるから信じる、ではなく、負けてもなおそれを捨てないで戦い続ける、というやりかたでその価値を描いているのだ。最終話Cパートですべてを捨て、放浪者となった20年後のシモンも同様だ。全てを失い、老いさらばえてもなお、笑っていられる強さこそ、グレンラガンが最後に到達した地点なのだ。

 純化した精神論、精神論によって価値が与えられた精神論は決して否定されない、無敵の螺旋だという点をここまで述べたが、それは突き詰めるところ非敗の理論だ。旧日本軍の敗北の軌跡がそれを証明している。御伽噺であることが許されるアニメなら(あるいはグレンラガンが2部までのアニメなら)それも許されただろうが、グレンラガンはそれを許さなかった。熱血の文脈は今に伝えるべき思想なのだ。
 それを支えるのが「世代交代」の思想だ。今は負けてもいい、精神さえ負けていなければ。そして勝つのは次の世代に任せる、という訳だ。この世代交代の思想が熱血の思想の負の部分をカバーすることによって、熱血の思想は社会性を持ちうる。この熱血と世代交代の融合という思想も、意外に“受け継いでいく”という思想とそりが合わない西洋の近代社会には無かった発想だ。



 世界のスーパーフラット化が進み、全ての思想が相対化、平均化されつつある現在、この熱血の文脈が持つ、絶望が見えてもなお前進を止めない、今負けても次の世代が、その世代が負けても更に次の世代が、という思想こそ、現状の停滞を突破できるのではないかと信じている。

知ったかぶりをする癖を治そうと思うが、治さなくてもいいかとも思う。

 知ったかぶりをする癖を治そうと思うが、治さなくてもいいかとも思う。



 小林秀雄は「ロシア小説を読む際に、ロシア語を学ぶ必要はない。訳書を読めば十分」というようなことを言っていた。
 これはあまり一般的な考えではないと思う。
 やはり「ドストエフスキーを読むのであれば、トルストイも読んでおいた方がいいし、当時のロシア文化、政治、歴史を知っていればなお良い。原書で読めればそれが一番良い」という意見が多数派なのではないだろうか。
 
 これはつまり「そのテキスト内の真実を掴むためには、主観的な想像を廃し、テキスト周辺の情報を集めることが必要だ。また、原書で読めば訳者のノイズが入ることもない。その結果、客観的なテキストの真実が手に入る」ということなのだろう。

 それは、おおまかに言って間違いないように思う。
 ではなぜ、秀雄は、その世間一般の考えに反するような主張をしたのだろう。

 おそらく彼は、客観的な事実なぞどうでもよかったのだ。
 ただただ思索を。個人的な論理と文脈の奔りをこそ求めていて、社会的な事実を見抜くとか、どうでもよかったのだ。
 秀雄の、能や絵画や音楽について語る文章を読むと、心底そう思う。
 彼にとって対象は単なる思索のきっかけであって、本当に大事なのは対象に接した時の感動なのだ、という感じ。
 
 それはただの感想ではないか、批評ではないという意見もあろう。もちろん秀雄は自分の感動に共感してほしい訳ではない。作品の中から、人間の真実を探ろうという意思はある。
 ただ彼が外界との接触に用いるのは、言語だけなのだ。この言語という不自由なツールのみで、彼は人間の、世界の、宇宙の真実に辿り着こうと目指していて、それは可能なのだ、と証明しているのが、彼の作品群だと思う。



 なんだか思った以上に、小林秀雄について語ってしまった。こんなはずではなかったのに。
 まあ要するに、自分がちょっといい加減なことを言っても、それは自分の考えの中では真実なので、許して下さいってことで。すいません嘘です直します。



 最後に。小林秀雄の発言の出典についても、文中で述べたようになくてもまあいいじゃないってことで許して下さい。でもこれは彼の名誉に関わることなので、出来れば今後追記して、出典を明示したいと思います。